こんにちは。めたろんです。
この記事では、
- 有名な女性画家にはどんな人がいるのか知りたい
- その作品や人生についてざっくりと知りたい
という方に向け、国内外の有名な女性画家8人について、まとめています。
- 代表作
- 作品の特徴
- 略歴
それでは見てみましょう。
Contents
- 【オキーフ、上村松園など】知っておきたい:有名な女性画家8人
【オキーフ、上村松園など】知っておきたい:有名な女性画家8人
※没後70年が経過していない(あるいは存命の)画家については、著作権を鑑み作品を掲載しておりません。ご了承ください。
ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841-1895)
代表作
- 読書/1873年
- 穀物畑/1875年
作品の特徴
ベルト・モリゾは19世紀印象派の画家です。
母子の微笑ましい情景など穏やかなモチーフが多く、自然の緑や外光をうるおいのあるタッチで描きました。
略歴
1841年 フランスに生まれる。
1861年 20歳の時から画家ジャン=バティスト・カミーユ・コローに師事。
戸外での制作をはじめる。
1864年 サロンに初入選。
1868年 画家エドゥアール・マネに出会う。
マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、恋仲を噂されることもあった。
1874年 マネの弟と結婚。4年後に娘ジュリーを出産。
1895年 54歳で死去。
参考ページ:Wikipedia
メアリー・カサット(Mary Stevenson Cassatt、1844-1926)
代表作
- 麦わら帽子の子供/1886年
- 母と子/1903年
作品の特徴
メアリー・カサットはアメリカの画家・版画家。
独特の力強いタッチで母と子の親密な絆などを現しました。
略歴
1844年 アメリカの裕福な家に生まれる。世界中を旅行しながら育てられる。
1861年 フィラデルフィアの美術アカデミーで絵の勉強をはじめる。
1872年 パリ・サロンに初めて出品。
批評家からは「肖像画が実物以上に精密すぎる」「色が明るすぎる」などと酷評を受ける。
1874年 印象派の画家ドガのパステル画を見て強く共感する。ドガと対面を果たす。
病身の母と姉を看病するために一時、絵画から離れる
1890年代 再び絵を描き始め、精力的に制作、名声を得る。
1904年 フランス政府よりレジオンドヌール勲章を受ける。
白内障を患うなどして絵を描けなくなるが、女性参政権を支援し、運動を支えるために作品を出品する。
1926年 82歳で死去。
参考ページ:Wikipedia
上村松園(うえむら しょうえん、1875-1949)
代表作
- 序の舞/1936年
- 母子/1934年
作品の特徴
上村松園は明治から昭和にかけて活躍した日本画家。
気品あふれる美人画を得意としました。
略歴
1875年 京都市に生まれる。
1887年 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
1890年 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品。
一等褒状受賞を得る。
1895年 竹内棲鳳(竹内栖鳳)に師事。
1902年 長男・信太郎(松篁)が誕生(未婚。相手は画家の鈴木松年)。
1948年 女性として初の文化勲章を受章。
1949年 74歳で死去。
マリー・ローランサン(Marie Laurencin、1883-1956)
代表作
- マドモアゼルシャネルの肖像/1923年
- 花と少女/1937年
作品の特徴
マリー・ローランサンは20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家。
夢見るような柔らかい色彩と形で女性像を描きました。
略歴
1883年 フランス、パリに生まれる。
画塾アカデミー・アンベールで絵を勉強する。
画家ジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受ける。
1907年 サロンに初出品。
1912年 この年に開いた最初の個展が評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。
新進画家として知られるようになる。
1914年 31歳でドイツ人の男爵と結婚。
1920年 離婚して単身パリに戻る。
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、売れっ子画家となる。
1940年ごろ 第二次世界大戦の際、フランスを占領したドイツ軍によって自宅を取り上げられるといった苦労もあったが、創作活動を続ける。
1956年 72歳で死去。
参考ページ:Wikipedia
ジョージア・オキーフ(Georgia O’keeffe、1887-1986)
代表作
作品の特徴
ジョージア・オキーフは、20世紀のアメリカを代表する女性画家。
70年にも及ぶ長い画歴のなかで、風景、花、動物の骨をテーマとして描きつづけました。
画面いっぱいに拡大して花の絵を描いた作品群や、牛の頭蓋骨を描いた作品群がよく知られます。
また、抽象画を描きはじめた最初期の画家の一人でもあります。
略歴
1887年 アメリカの農家に生まれる。
シカゴ美術館附属美術大学、ニューヨークの美術大学で学ぶ。
1910年 病気により、家族がいたバージニア州に移る。
一時、絵画から離れたが、再び描き始める。
1912年頃 画家のアーサー・ウェスレイ・ダウに出会う。
彼は自然を模写するのではなく個人的なスタイルを基盤として制作することを推奨しており、この思想がオキーフの芸術観に影響を与える。
1924年 写真家のアルフレド・スティーグリッツと結婚。
ニューヨークに住んでいたが、夫の不倫が原因でオキーフは精神衰弱し、活動を一時的に停止する。
1930年代なかばに芸術活動を再開すると、ニューメキシコ州の風景や動物の骨にインスピレーションを受けた作品を制作する。
夫の死後、ニューメキシコに完全に移り自宅とアトリエを建てる。62歳から亡くなるまでの約40年間を、ニューメキシコの荒野に建つ家と、緑豊かな環境にある家という2拠点で過ごす。
1986年 99歳で死去。
動物の骨に興味をもったのは、夫の不貞によるところもあるのでしょうか。
一度訪れてみたくなりました。
小倉遊亀(おぐら ゆき、1895-2000)
代表作
O夫人坐像/1953年
浴女/1938年
作品の特徴
小倉遊亀は日本画家。上村松園・片岡球子と並んで日本を代表する女性画家です。
1950年頃までは、細密な描写や端正な作品構成が特徴的ですが、その後マチスやピカソといった西洋絵画を研究した成果が大胆に取り入れられます。
1966年頃から1976年頃までの作品は円熟期であり遊亀独自の境地と評されます。
略歴
1895年 滋賀県生まれる。
1920年 安田靫彦に師事する。
1926年 「胡瓜」が院展に入選。
1932年 女性として初めて日本美術院同人に推挙される。
1938年 結婚。以降は鎌倉に居住する。
1980年 上村松園に次いで女性画家2人目となる文化勲章を受賞。
1998年 奈良女子大学初の名誉博士。
2000年 105歳で死去。
参考ページ:Wikipedia
フリーダ・カーロ(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon、1907-1954)
代表作
ベルベット・ドレスの自画像/1926年
モーゼ/1945年
作品の特徴
フリーダ・カーロはメキシコの現代絵画を代表する画家。
生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像でした。
略歴
1907年 メキシコシティに生まれる。
1913年 6歳になった頃に感染症にかかり、約9か月間寝たきりの生活を送る。
父親はフリーダのリハビリを兼ねてハイキングに連れて行ったり、水彩画やカメラを教える。
1922年 メキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校へ進学。
1925年 通学中に事故に遭い、生死の境をさまよう重傷を負う。
事故の後遺症で背中や右足の痛みに悩まされる。病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになる。
1929年 21歳年上の画家ディエゴ・リベラと結婚。
1930年ごろ 数回妊娠するも、事故の影響からすべて流産となる。
このことが彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与える。
1939年頃 アメリカの映画俳優がフリーダの絵を大量に購入したことをきっかけに成功するが、夫婦仲が冷めてしまう。
同年 離婚が成立。生家があるメキシコへ戻る。
孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努める。
1940年 元夫リベラと2度目の結婚をする。
1940年代 メキシコ内においても名を知られるようになり、様々な賞を受賞。
1954年 47歳で死去。
それら数々のセルフ・ポートレイトは、痛々しいながらも丁寧・豪奢に描かれ、ただならぬ熱量を感じます。
草間彌生(くさま やよい、1929-)
代表作
- 南瓜/2007年
- 赤い靴/2002年
作品の特徴
草間彌生は日本の芸術家。
幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めました。
水玉模様などの同一のモチーフの反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つ。カボチャをモチーフにした作品も繰り返し制作されました。
ファッションデザインや小説執筆などの活動も行っています。
略歴
1929年 長野県の種苗業を営む裕福な家に生まれる。
草花やスケッチに親しむ一方、少女時代から統合失調症を病み、幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。
1949年 京都市立美術工芸学校絵画科を卒業。
1952年 松本市公民館で個展を開く。
精神科医の西丸四方がこの個展を訪れて感銘を受け作品を購入。その後生涯にわたるよき理解者となる。
1959年 ニューヨークで個展を行い、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する。「前衛の女王」の異名をとる。
1978年 初の小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表。小説家としての活動を始める。
1993年 ヴェネツィア・ビエンナーレに参加。世界的に再評価熱が高まる。
2009年 正方形の絵画群「わが永遠の魂」シリーズを作成開始。auの携帯電話をプロデュースする。
2012年 ルイ・ヴィトンとの共同コレクションなど、商業分野での活動も盛んに行う。
いかがでしたでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。