【やまなし】宮沢賢治について

2021年9月29日

こんにちは。本棚に「宮沢賢治詩集」をそっと置いている、めたろんです。

 

多くの人が一度は読んだことがあるであろう国民的作家。

 

この記事では、宮沢賢治についての概要や考察をまとめています。

 

宮沢賢治について

概要

宮沢賢治(1896-1933)

岩手県花巻に生まれ、仏教への信仰や農生活に根ざした創作を行った。作品は生前はほとんど知られず、没後関係者の尽力により広く知られるようになった。現在ではその人物と作品が広く愛好されている。

引用元:Wikipedia

 

略歴

  • 1896827日に生まれる
  • 1903、花巻川口尋常小学校に入学

鉱物採集や昆虫標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる

  • 1909、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学

3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作する

  • 1915年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学
  • 1918東京に進学した妹のトシが入院したとの知らせが入り母のイチと上京する
  • 1921年、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となる
  • 1922、結核により妹トシ死去。

翌年樺太を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く

  • 1924、『心象スケツチ 春と修羅』刊行。
  • 1926、花巻農学校を依願退職。
  • 1928、肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月に高熱で倒れる。以後、実家で病臥生活となる
  • 1930、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる

文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む

  • 1933、急性肺炎により死去。没時年齢は満37

引用元:Wikipedia

 

代表作(一部)

  • グスコーブドリの伝記/1922年ごろ
  • シグナルとシグナレス/1923年
  • 注文の多い料理店/1924年
  • 銀河鉄道の夜/1924年ごろ

 

「やまなし」と、言葉の魅力について

80年代に小学生だった方であれば、国語の授業で「やまなし」という作品を勉強したことがあるかもしれません。

 

「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」

 

この破壊的に可愛くシュールな一行に象徴される作品が、私と作家との最初の出会いだったと思います。

 

「やまなし」は、川の流れの下で暮らす蟹たちの目線で書かれています。

 

それなのでかぷかぷという擬音語は(水の中ということを鑑みれば)それほど突拍子がないという訳でもないですが、

かぷかぷ笑った、と言われるとなんともほほえましく新鮮ですよね。

 

他にも「宮沢賢治詩集」には

 

みちはひとすぢしらしらとして

蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る

そらがまるっきりばらいろで

 

など独特な擬音や言葉の組み合わせが登場し、味わい深いです。

 

創作を育んだ環境

私の憶測になり恐縮ですが、

 

宮沢賢治がその長いとはいえない制作期間に多くの印象的な作品を残すことになった要因として、家と外の境界が現代ほど強固でなかったこともあるのではないかと思います。

 

たとえば現代の集合住宅の玄関扉はおしなべて頑丈な鉄製で、加えてオートロックなど家の内と外は強固に分断されています。

 

けれども100年前はどうでしょう。

 

家は木造で道はアスファルトで覆われておらず、家の中にいても自然の気配が色濃く染み入ってきたと思われます。

 

そんな環境の中で山野に親しみ育てた夢想が、机上の原稿用紙に達するまでに霧散することなく定着できたのではないでしょうか。

 

宗教について

宮沢賢治は日蓮正宗という宗教の宗徒でした。

現代の日本では無宗教が多数派で、宗教をよりどころにする生き方になじみが薄いようにも思います。

 

一方で情報や物質がひしめく社会で暮らしていると、疲れて自分は一体どこに向かっているんだろう?と道を見失ってしまうこともあるのではないでしょうか。

 

宮沢賢治は人生に宗教を連れることで信じる道を一心に歩いて行けたのかもしれません。

 

逝ってしまう者への祈り

宮沢賢治作品の多くにどこか透き通った印象があるのは、自己犠牲をいとわない清らかな心をもった人物が描かれているからかもしれません。

 

例えば「銀河鉄道の夜」で、川で溺れた友人を助けて命を落した少年カムパネルラ。

そして「よだかの星」で、虫の命を奪うことに心を痛め、まっすぐに空へ登り星になった醜い鳥、よだか。

 

また実生活においても愛する妹の臨終に立ち会わなければならなかった彼は、死を通じて彼らが美しい世界へ行けるように祈りをこめて創作したのかもしれませんね。

 

単語の魅力、そして鉱物好き

宮沢賢治の作品中には「発電所」「政治家」「旱害地帯」など実務的な言葉や作品が時折組み込まれ、効果的なアクセントになっています。

 

また彼は略歴に記載の通り「石っこ賢さん」と呼ばれるほどに鉱物採集が好きだったようで、水晶、金雲母、琥珀、蛍石など各種鉱物名がジュエリーにあしらわれる宝石のように、作品世界を彩っています。

 

無二のフィルター

宮沢賢治の感性を通すと、いろいろな事象が透明で清らかな性質を帯びるようです。

 

ここで、生前唯一の刊行詩集「春と修羅」からその冒頭を紹介します。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

 

この書き出しでは彼の上等なフィルターがよく仕事をしています。

「私」を現象としてとらえているのが儚いですね。

 

しかもそれが青い照明であると。なんとも夢幻的で涼やかです。

 

「有機交流電燈」はよくわからないのですが、この一節の清らかさを一層増幅させているように思います。

 

画家に愛される作品群

文学でありながら視覚的イメージが豊かなその作品群においては非常に多くの画家が挿絵を手がけています。筆者の印象に残っているのは小林敏也という画家の挿絵です。

 

黒っぽい色面と、ひっかいたような細い線。宮沢作品世界の陰影や静けさ、清澄さがうまく表されているように思います。

 

 

まとめ

いかがでしょうか。

 

野山を愛し家族を愛し、一心に働いた宮沢賢治。

困難も多く、愛する者を見送らなければならなかったり、志した活動の挫折や病気(肺結核)などとの対峙も余儀なくされましたが、

それだからこそ理想とする世界を一心に創り続けたのかもしれません。

 

1933(昭和8)年に作家が死去したことを思うと、

第二次世界大戦の影に完全に覆われず、煌くような作品の数々が生まれたのは幸いだったかもしれないとも考えます。

 

折にふれ、宮沢賢治の作品に親しんでいきたいですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^^)/

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